クリエイターの友人に
「今は一年に一度渾身の作品をリリースするより多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる人のほうがありがたがられますよ」
と指摘されて「ですよね」と答えたという。
わかってます。
オレ、二年に一度の作品だから当てはまらないし。
~後略~
(BOOM BOOM SATELLITES 中野さんのツイートより引用)
さて、本日取り上げるこのツイート主のBOOM BOOM SATELLITES (以下ブンブン)は僕が好きな2人組の音楽ユニットなのですが、
彼らのスタンスや活動内容にある種の「成功法則」と言いますか、「これが無いとダメだろ」という要素が見られたので、ご紹介と解説をしていきます。
もし、皆さんが何かしらのビジネスに取り組むのであれば、必ず役に立つので、是非とも肥やしにしてもらえたら嬉しいです。
では、彼らがどんなアーティストだったかというと、彼らの言葉を借りるのなら、“多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる人” ではなく “多少時間がかかっても渾身の作品を提供する人” であったと僕は思っています。
昨今、そのような
「多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる人」が多く求められてる風潮を強く感じます。
まあ、僕自身もある意味『重たい創作物』より、娯楽性、エンターテイメント性が優先されたものを求める瞬間があるな、なんてこともしばしば。YouTubeとかちょこちょこ見ますしね。
それは
村上春樹の上下巻の大作を読むより、
ライトノベルが優先されるのかもしれないし、
小難しい哲学書よりは、
内容を薄めたビジネス書が手に取られるのかもしれないし、
複雑な味わいのフレンチよりは、
分かりやすい味の焼肉やラーメンに足を運びやすいのかもしれないです。
世間的により多くの支持を得るのはきっとそういうものなのでしょう。反対にこのツイートで言うところの“年に一度の渾身の作品” というものはユーザーにもエネルギーを要求する、つまりは取っつきにくいものなので、やはり比べてしまうと需要が少ないのは仕方がないことなんだろうとも思います。
では、村上春樹はヒットしてないのか、というとそんなことは決してないし、
哲学者は非常に大きな影響を後世に残し続けているし、
ものすごく高いお値段でも全然予約が取れないフレンチだってあるわけです。
で、僕はどうせ大変な思いをしてビジネスをするのなら、自分のこだわりが詰め込んだ自分自身ががっつり納得したものを提供したいんですよ。自分が良いと思うものを世に出したいし、納得できてないものを売りたくないんです(まあ、そういうものが出せてないとビジネスは成功しないですしね)。
そうなると必然“多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるスタンス”よりは“多少時間がかかっても渾身の作品を提供するスタンス”になりやすいと思うんです。本日はこのツイートから僕が感じた【クリエイターに必須の自我】について少しだけ小言をこぼそうと思います。
さて、このツイートで言うところの “多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるモノ” は絶対に世の中に必要なものであるし、それの良さや役割が必ずあります。そしてそれは “年に一度の渾身の作品” では代用が効かないのだと思います。
ですが、予め僕の意見を言っておくと、僕はそういった“多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるモノ” を自分で作る気は現状無いです。否定はしてるわけでも無いですし、いつかその意見は変わるかもしれないんですけどね。
つまり、それらがそれらなりの良い部分があると認識しつつも、それを自分で選択することはないということ。なぜかってそれは『自分がそれを心の底から憧れているわけではないから』です。
この
『自分が憧れるか』とか
『自分が好きか』とか
『心が震えたか』とか
『自分が良いと感じるか』という
自分の主観的な気持ちを定義することがクリエイターとしてとても重要です。そしてそれを見過ごしている人のこれまた多いこと。多くの人が何をやれば一番儲かるかとか、何が一番簡単なのかとか、そういったことを考えてしまうのですが、まずはそれより先に、何をやることが自分にとって幸福なのかを考えるのことがビジネス成功の王道です。
反対に多くの成功していない人はそれをないがしろにしています。
そもそも幸福度が上がらないなら、ビジネスなんてやる必要ないし、自分の幸福度が足りていないのに、他者に価値を提供することなんてできません。なぜなら、他者に何かを与えることができるのは余裕のある人だけだからです。
切羽詰まって余裕がない人や、儲かるためになんとなく(もしくは嫌々)やっている人は人の心を動かすことなんて到底できっこないんです。だからこそ、ビジネスで成功したいなら、まずは好きなこと(もしくはやりがいを見いだせること)を自分で主体的に選択して取り組むことが、
誰もが越えなければいけない最初のハードルなのです。
「人からすすめられたから」とか
「たまたまそれが儲かりそうだから」とか
「なんとなく、、、」とか
そんな理由でやっているビジネスに未来はありません。主体的に自分の好きなことを見つけ、選ぶ。これが大前提です。そして、それが余裕に繋がりますからね。
だから今回はそのクリエイターとして必要な主体的な “自我” について少し考えてみることにします。ここからずっと小言ですので、時間がある方だけ読みすすめてください 笑
では、初めのツイートに触れていきますが、ツイート主であるブンブンは少し前にメンバーが一人亡くなっており、現在は活動を停止しています。そのメンバーも急逝ではなく、それまでに何度も入退院を繰り返し、活動を止めては初め、止めては初めを繰り返していました。
そんな彼らの命の期限を感じながら、歩み続けてきた生き様を見ていると “多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるスタイル” ではなく “時間がかかっても渾身の作品 を世に出していくスタイル”になるのはある意味必然だったのだと思います。
「もし明日死ぬならどういう曲を書く?」
彼らの後期の作品にはこんな質問に答えるかのような “主体的な自我”がこれでもかと込められており、“渾身の作品” を世に出していくスタイルをまざまざと体現していたのだな、と思い知らされます。
恐らくは彼らはマーケティングの視点(売れやすさとかヒット法則とか)を考えたりはせず、自分たちが信じるものや、自分たちがやるべきだと思うものを作っていたのでしょう。
時代に迎合されることもなかった。少なくとも僕は彼らを見てそう感じていました。
俺たちはいつだって
全力で渾身の作品を世に出している
そう自信を持って、ビジネスをやれている人が世にどれだけいるでしょう。
僕の経験上、
「お客さんが満足するなら、この程度のもので良いか」
「流行っているから、自分は良いと思わないけど売っちゃうか」
こんなことを考えてビジネスをやっている人も少なくありません。
ですが、僕は世の全ての人はこの「全力で渾身の作品を世に出す感覚」をしっかりと持つべきだと思います。だってそのほうが絶対世の中は楽しくなるじゃないですか。
とはいっても、こういった思いを口に出すだけなら簡単で、それだけなら誰にでもできます。言葉にするだけですからね。けれど、それだけでは意味がありません。あくまで実際に行動に起こし、体現することが重要。
彼らのようにその様を体現する、背中で見せるとなると難度がぐんと上がります。これが実に難しく、できない人がほとんど。けれど、僕らはそれをやらなくてはいけない。口だけではいけない。口だけの奴は信頼されませんからね。
だからこそ自分のスタイルを口で語るのではなく、自分の背中で見せる、つまり体現する必要があります。それこそが人を惹きつける要素なのです。
先にも言いましたが、“多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるスタイル” と “時間がかかっても渾身の作品 を世に出していくスタイル”どちらのスタイルが良いかこの文章で言及するつもりもないです。
自分が信じるスタイルを体現すれば良いんです。なぜなら自分が信じるスタイルを主体的に選択すること自体に意味があり、価値があるから。だからスタイルの種類は好きなものを好きなように選んでください。それが主体的な自我ですしね。
それにどちらのスタイルにもそれぞれの良さがあり、明確に役割も違うわけだし。どちらが正解か、不正解か、明確かつ “客観的な答え” なんてどこにもないのです。
“客観的な答え” っていうのはつまり、だれから見ても正解であるという絶対的な答えなのですが、実はそんなものを探す必要はないんです。だってどこにもないんだからね。
でも、客観的な答えはなくとも、“主観的な答え” なら見つけることも作ることもできます。なぜなら “主観的な答え” とは「僕にとってはこれが正解だ!」というものだから。それは自分次第で自分で定義することができる。でも、それをやらない(できない)人がほとんど。
それはなぜかというと “主観的な答え” は自分で見つけることも作ることもできる代わりに、第三者が見つけたり作ることは絶対にできないから。つまり他人に聞いても分からないんですね。すっっっごく当たり前のことだけど。
だから常に自分が何をすればいいのか第三者から指示を受けないと動けない、そんな現代の学校教育の賜物のような人間にはこれは難しいわけです。そして現代の学校教育をしっかりとおさめた真面目な日本人にはこんな『明確な正解さえ分かれば動きます!』的人材がとても多い。
これは逆を返せば
「何か指示を出されないと何もできません。」
「明確なゴールを示してくれないと何も分かりません。」
と言っているようなもので、これは主体性の正反対に位置する受動的な思考です。
つまりクリエイティブじゃないってことですね。
余談ですが、僕は何を隠そう幸か不幸か、まともな学校教育を割と平均より早く放棄し、鉛筆やシャーペンをギターに持ち替え、日々ロケンローに明け暮れていたので、学力が平均より大幅に劣ることとなり、その結果、母親を悲しませた代わりに他の人と比べると多少 “主観的な答え” を作るのが得意でありました。
僕らに必要なクリエイティブな思考とは、自分みずからその “主観的な答え” を模索し続けるスタイルから生まれると僕は思っています。それは他人に迎合されることなく、自分だけの正解を作り出すために外の世界を探す。そんなスタイル。主体的な自我って言いかえても良いです。
世の中にはこれができていない人がほとんどなので、もし皆さんが主体的な自我を持ち、主体的な答えを見つけ、クリエイティブな思考を身につければ、それだけで特別になれると言い換えても良いです。
だってそういう人って世の中に少ないんですから。
では、本日の肝心要である “主観的な答え” “主体的な自我”はどうやって作りだすのか?
こういう「自分で考えろ!自分で決めろ!」的な話をすると、決まって自分の中の殻に閉じこもってじっくり一人で思考しようとしてしまう人が多いのですが、(それも重要ですが)それだけでは足りません。
例えば、自分の心のどこかにある種の答えが転がっていて、数日考えればそれが掘り起こされるなんてことはあまりないでしょう。なぜなら、主観的な答えは自分の中から生まれるものではありますが、それを形成する材料は外界から持ち込まなくてはいけないからです。
つまり、自分の中の正解を探すためには、自分の思考の中にこもっているだけではいけなくて、外の世界を旅しなくてはいけない。十分に自分とは違う外界の世界を見て、色々なものを比較しないとそのものの良さも分かりませんし、好きなのか、嫌いなのかも分かりません。
脳科学の世界ではすでに証明されていることですが、人間とは何かを比較することによりその差を知ることができる生き物なのです。
好きなものがない、やりたいことがない(もしくは少ない)という人が世の中にはいますが、そういった人は基本的には見聞が狭いです。こういった人、進路に悩む高校生とかに多いですよね。
ですが、好きなものや嫌いなものがハッキリしている人は見聞が広いです。
そして自分にとっての正解(多くの場合は好きなことや、やりがいを見いだせること)を見つけるためにはまずは自分の好き嫌い(自我)をハッキリさせなくてはいけません。
そのためには外の世界に出て、多くのものを知り、多くの体験をする必要があります。まあ、だからといって外の世界だけを見て、自分を振り返らないのもいけないのでバランスが難しいんですけどね。
殻にこもり過ぎてもダメ、だからと言って外の世界だけ見ていてもダメ。どちらもとても重要で、バランスよくやるべきなんです。
めんどくさいことではあるんですが、僕らは既存の選択肢の中(この場合は「殻にこもる」「外の世界に出る」)に正解があると思うのはやめて、既存の選択肢とまだ知らぬ選択肢のどちらにも良いところがあり、悪いところがある、だからそれぞれの良いところは吸収し、悪い部分は削ぎ落とす。そんな思考が求めらるんです。
つまりこの場合は「どっちもやりましょ」ってことです。
ではもう少しだけ自分の中の世界(殻)と、外の世界について噛み砕いていきましょうか。
例えば、
日本という国の良さを知るには外国を知らなくてはいけないように、家族のありがたみを、親元を出てから気づくように、僕らはそのものから離れることでしか、そのものの本当の良さに気づかない。そして、それと同時にそのものに十全に触れてこないと気づかないこともある。
どちらかだけではダメなんです。
“離れることで分かる良さ” と “接近すること分かる良さ” のどちらの良さも取り入れて、初めて正当な判断ができます。
テニスしかやったことない人は、他のスポーツと比べてテニスがどう優れているか分からないし、だからといってテニス自体にしっかり打ち込んでない人もそれはそれでテニスならではの魅力に気づけない。
年に5本しか映画を見ない映画評論家なんていないでしょう?
それはたくさんの映画を観て比較しないと、一つの映画の魅力を見出すことができないから。でもだからと言って一つの映画を熟視できないのもダメ。僕らはより良い “自分の中の正解” を決めるためには対象から離れ、より多くのものと比較し相対化しなくてはいけないんです。
そして比較し、正解と思うもの見つけたら、その上でそれをじっくり見つめる力も必要。
外のものと比較し、相対化することにより “自我” が強くなっていくのです。
沢山のものを乗り越えてきた人の意見って頼りになるし、参考になるじゃないですか。
例えば、僕たちが料理人だとしたら、こんな感じの人が外の世界を比較し、相対化することにより “自我” が強くなった状態。
・いろんな料理をたくさん食べてきた(外の世界)
・その中でも和食に特化した調理を学んだ(自分の中の世界)
を両方の世界を十分に行き来した状態ですよね。
・たくさんのものを見たという視点
・一つのものをじっくり追求した視点
どちらか一方だけでなく、両方の本質を含んだ新しい選択肢を作る。
こんな考え方なら、和食に特化した腕を使い、その上で世界の料理の良いところを活かし、全く新しい何かを生む力を手に入れられるかもしれないですよね。そして、その強く、ユニークな迎合されない “自我” で(外の世界へ出て)多くのものを踏まえた自分の中から新しい何かを見つける、選ぶ、
それを繰り返すことによって自分だけのユニークなものが作れる。
“選ぶ” や “見つける” という行為がある一定の熟練度を得ると“作る” や “生む” に発展するわけです。マネや模倣が創造に発展すると言い換えてもいいかもしれません。
【選ぶ・見つける】→
【作る・生む】 Levelup!!!
要するに僕たちは
たくさん色んなものに触れて、その中で気になることは妥協せずトコトン取り組まないと、好きか嫌いかの判断もつかないんです。なんとなく生きてたら、なんとなく好き、とか、なんとなく嫌い、ばかりになっちゃいます。
この好きと嫌いを全力で集めるということを繰り返していくと自ずとクリエイティビティが養われて、ユニークな人間になっていくことができるんです。これがクリエイターとしての在り方であると、彼らのような誇り高きクリエイターから僕らは学ぶべきだと思うのです。
彼らのような素晴らしいクリエイターは唯一の無二のものを作り、そのスタイルを体現することで新たなフォロワーを増やし、世の中をより面白くしていく “教育者” であり “先導者” でもあります。この2つを兼ねる存在であることがとても重要。
成功する生き方とはそんな生き方ではないのか、
自由な生き方とはそんな生き方ではないのか、
幸福な生き方とはそんな生き方ではないのか、
もし多くの人々がそう定義できるのであれば僕らの生きている世界は今よりもっと豊かになる、そう思うのです。
流行りの YouTuber のような “多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる” スタイルも一つの形としてアリだし、ブンブンのような文字通り “命を燃やした渾身の何かを提供するスタイル” もアリだと思う。
( “多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる” スタイルもそれはそれで渾身のスタイルたりえるのです。まあその場合、もはや“渾身の何かを毎日提供するスタイル”に進化してるんですけどね)
好きな方を選べば良い。もちろん見つかるなら他の選択肢を選んでも良い。
もし自分が明日死んでしまっても後悔の残らないスタイルがどちらなのかと聞かれたら、今の所、僕にとっては後者の方が “主観的な答え” に近いということです。
だけどそれはもちろん、僕の “主観的な答え” であり、”主体的な自我” だから “多少くだらなくても毎日何かを提供してくれる” スタイルに全てを捧げるのも、その人が導き出した“主観的な答え” “主体的な自我” と言えるなら当然良いんです。
だって、他人からくだらないと言われても全身全霊を注げ流のはそれはそれでカッコイイですから。あなたがどっちを目指すのかは、自分で決めて欲しいということですし、それが何より重要です。
大切なことだから何回も言いますが、
“多少くだらなくても毎日何かを提供してくれるスタイル” であろうと、
“少し期間がかかってでも渾身の何かを提供するスタイル” であろうと、
それが “主観的な答え” であり “主体的な自我” による選択であるのならどちらも正解になる。
そして反対に “主観的な答え” であり “主体的な自我” による選択でないのなら、どちらも不正解になるということ。
また、例え同じことをやっていても、“主観的な答え”や“主体的な自我”を持つ人とそうでない人では全くもって生まれるものが違うのです。
で、世の中には“主観的な答え”や“主体的な自我”を持たない人も多いです。これじゃ上手くいかないということ。
だってこれって何を選んでもその考え方では全てが不正解になる状態ですから。これじゃ残念ながらどれだけ頑張っても成功することはありえないです。
そもそも何かを選んだり、見つけたりする前の段階でつまづいている、でもそこに気づいていない、そんな状態。それはとてももったいない。だれに言われたからとか、そっちの方が人気が出やすいとか、そっちの方が楽にできるとか、そういうくだらない視点は僕らには必要ありません。
だって「明日死ぬならなにをやるか」ですから(なるべくなら死にたくないけど)。
確かに僕が憧れたブンブンのようなスタイルは人気がもっとも出やすいスタイルではない。そして簡単なスタイルでもない。時代性に多少反しているかもしれない。
でも、大きく人の心を動かすことができる。
クリエイターは小手先のマーケティング手法なんかに頼らなくても、本当に大事なものがあれば、ある程度のことはなんでもできる。
“主観的な答え” “主体的な自我” それさえあれば。
いろんなスタイルがあり、そのどれもが人によっては正解であるかもしれないし、不正解かもしれない。そしてそれは自分で決めるべきことです(本質的には自分でしか決められないことでもあります)。そして決められないのなら、決めれるようになるまで自分の世界と外の世界の行き来を繰り返すだけなのです。
これは根気はいるけど、すごくシンプルなことです。結局 “主観的な答え” を探し、見つけ、選び、作り、生み出すのは自分自身であるということ。
絶対に迎合されてはいけない。ある意味、それは究極の自己責任です。だって、迎合されないってことは「みんなもやってるじゃん」とか「じゃあ、俺もそれで」的な理由はまかり通らないんですから。つまりそれなりの理由を自分で作ってるはずなんです。
自分で全責任を背負うからこそ、気高くいられますし、好きなことを好きなようにできる、つまり自由で在れる。そんなスタイルを体現できたのなら、それはとても素敵な生き方だと思いませんか。
少なくとも僕はそう思っているので、日々そう在ろうと心がけているわけです。
そしてそれができている人が世の中にはとても少ない、だからそうなることができればそれだけでユニークな存在になることができる。つまり、ビジネスが成功するということです。
といったところで、
自分が満足する位置にまでたどり着くのは中々に険しい道ではありますが、この文章をここまで読んでくれた皆さんにとっての “主観的な答え” を見つけるための参考になれば幸いです。
僕も日々それを探し続け、アップデートし続けています。
面倒でありますが、クリエイターというのはそういう生き方であり、生き物だってことで。このまま書き続けてしまうと、小言が小言で無くなりそうですので、今回はこれくらいに。
ではまた。